【トンデモ】高橋史朗の1984

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 「臨時教育審議会の20人の専門委員が中曽根首相によって任命されたのは1984年12月20日」(p.48)。「そのなかで弱冠34歳」「の教育学者が起用された」…「名前は高橋史朗」(同上)…。えっ。教育学者…。これを報じた毎日新聞に「髭をはやした顔写真が載っている」(p.49)。髭しぐさ。現在ではデムパで有名であるが、当時は「日本の教育学界では、ほとんど名前を知られていなかった。ところが、臨教審専門委員に抜擢されたのと前後して、次々と論文を発表する」…「発表媒体をみれば、高橋の思想傾向がおおよそ察しがつく」…「自民党機関紙『自由新報』や勝共連合系列紙『世界日報』に執筆するなどをみると、その体質はより鮮明になる」(同上)…。鮮明しぐさ。あっ…(察し)。
 「アメリカで占領期の資料を“発掘”し、教育基本法は占領の産物であり、不備で、教育勅語は失効していない。そこから教育勅語教育基本法を超越する教育憲章の必要性を主張するのが高橋の論法である。“デビュー”当時は、公正無私な研究者を装っていたが、最近では、自らの意図を露骨にあらわしている」(pp.49-50)。露骨しぐさ。「高橋は、教育基本法を歪曲してきたのは日教組だ、とヒステリックにいいたてる。“若気のいたり”であろうか。冷静な研究者がかくもヒステリックになるのはなぜだろうか」(p.50)。これが“脳内汚染”の実例です。
 「78年10月3日の元号法制化実現総決起国民大会では、壇上で大会決議文を読みあげたのは学生服姿の高橋史朗」(p.52)…。彼の日本教育研究所(トンデモ)は「小中高校での教育実践だけではない。幼児に対しても指導がなされる」(p.55)。「日本の国のお誕生日を祝うと同時に、天皇様に『ありがとうございます』ってお礼言おうね」(p.56)。ありがとうしぐさ。「80年に千葉県松戸市で朝礼の時、小学生に『校長先生は敵が攻めて来たら戦うぞ!』と愛国演説し」(p.57)た小林春光氏…。特技はイオナズンです。はい。敵が襲って来ても守れます。これが“脳内汚染”の実例です。
 「日本教育研究所の設立を1974年11月に正式に決めたのは、日本青年協議会第二回大会であった。以来、日本教育研究所は、日本青年協議会」「を連絡先にしている。電話の応待にも、『日本青年協議会です』というのである」(pp.57-58)。「この日本青年協議会とは」「反憲法学生委員会全国連合(反憲学連)や生長の家学生会全国総連合(生学連)の上部団体なのである。すなわち、日本教育研究所は、生長の家の系列組織の一つなのである」(p.58)。1983年8月に「高橋史朗をまじえて日本教育研究所の教研合宿が開かれ、ここで高橋は、『教育荒廃と日本占領――道徳の復権をめざして』と題して報告、教育荒廃と占領について、①制度としての父権秩序の破壊、②日本の伝統文化の否定、③厭戦思想の普及、④東京裁判による日本歴史の断罪、⑤子どもの自主性尊重、⑥教育勅語の否定を『教育荒廃の原因』にあげたのだった」(p.61)…。「日本を守る国民会議の高校教科書『新編日本史』について」「『東京裁判史観』にもとづく検定を批判し」「『復古調』と報道したマスコミを『偏向』といい、韓国や中国からの批判を『外圧』という」…「生長の家を母胎として生まれた日本教育研究所のリーダー、高橋史朗は、したり顔で臨教審において教育基本法改悪のメスをふるっている」(同上)…。
 水に「高橋史朗」という言葉をかけると水素水に(ry

 

引用文献
林雅行(1987)『天皇を愛する子どもたち 日の丸教育の現場で』青木書店