【トンデモ】保守しぐさ

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 中川八洋氏は「保守と保守主義は違うのです。保守主義イデオロギーですから、王制を守るとか、『人権』を排撃するとか、激越に闘争します。戦うのです。しかし日本のいわゆる『保守』は、単に『非左翼』であって、この戦う姿勢が全く欠如しています」(谷沢・中川 p.256)と述べ「現在の日本の社会を最も溶解せしめている、解体せしめている元凶の一つは『人権』」(同上 p.258)であるという。また、「1960年代からの『公民権』運動や70年代の『ウーマン・リブ』運動や『アファーマティブ・アクション(優遇措置)』などによって、公正を無視した『平等』化が米国社会の退廃の主たる原因となっており、懸念されざるをえない」「90年代にはこれに『PC(Politically Correct)』運動が加わりその狂信的な“言葉狩り”も、米国社会を腐蝕している」(中川 1996 p.172)らしい。「『ポスト冷戦』の日本では」「夫婦別姓や『子供の権利』など、家族の消滅運動という、実体的としては暴力革命に相当する伝統破壊つまり秩序破壊が国民に感知されない形で静かにかつ着実に進捗している」…「『政治改革』という四文字に思考停止して未曾有の政治的革新を左翼マスコミ煽動のままに無意識に進める日本という国家は、いずれその政治的機能が内部から自壊的に麻痺して半身不随になる日は遠くないと断言しておいてよいだろう」(同上 p.330)…。「人間は(小)ロボットではないし」「TVのアニメでしかありえないこのような妄想において観想されたのがホッブズの『主権』論である。TVアニメの主題歌を集めたようなもの、それが『レヴァイアサン』である。そんなものが正常な政治哲学の一つであるとすれば狂気であろう」(同上 p.246)…。これはむせる。
 「保守主義とはバークの哲学のことだといってもよい。そして、バーク保守主義という深遠な叡智を指針にせずしていかなる文明国家も未来へと悠久に永続する生命の泉を涸らさないでいることはできない。この故に、バーク哲学こそ日本国の必携である」(中川 2004 p.123)…「日本は、国をあげて、バーク哲学を拳拳服膺すべく、『バーク・ルネサンス』を断行しなければならない。それのみが日本に残された日本の悠久なる永続のための“最後の選択肢”だからである」(同上 p.124)…。バーク(エドシグサ・バーカ)は「『偏見の哲学』を展開し」(同上 p.129)、「偏見」とは「神への畏怖(宗教心)、王への畏敬、聖職者への崇敬、貴族に対する尊敬、判事たちへの服従……、というような『感情』のことを指している」(同上 p.130)。「僅かな智力しかない人間の理性は、『偏見』という服を何枚も着て初めて、漲るほどに豊かな智恵を得ることができる。自らの人格を高次の人間に向上させうる」(同上 p.131)。無知は力である(IGNORANCE IS STRENGTH)。
 「デカルト的合理主義の『設計(人間の知力)』による、非自然的で人工的な社会においては、人間の倫理・道徳は必ず死に絶える。伝統と慣習という、倫理・道徳が生命をうる土壌が破壊されてしまい、それが存在できなくなるからである」(同上 p.313)…。「ロックとは、社会をロボットや機械のようなものに人工的につくり直そうとしたホップス思想をたっぷりと吸いこんでいる思想家であった」(同上 p.320)…スーハースーハー!いい匂いだなぁ…くんくん、んはぁっ!「日本人は、社会のルールとしても個人の人格的自由の問題にとっても、慣習(conventions)である伝統的な道徳規範の墨守が大切であることを忘却した。いやそれ以上に、道徳について、それを積極的に破棄することをもって『自由』であると勘違いして今日に至っている」…「『美徳ある自由』のみが“真正の自由”である」(同上 p.324)。自由は隷従である(FREEDOM IS SLAVERY)。
 「女子中・高校生の売春(『援助交際』)が1990年代に入り猛威の伝染病となって日本中にあれほど広がったが、日本の大人たちはただうろたえるばかりで、なすすべもなくそれを放置した。理性主義のいかなる理論からも、倫理・道徳を擁護する知恵や知識は生まれてこない。つまり、理性主義に偏向した知見しか学校で与えられてこなかった日本人には、倫理・道徳を擁護する思考そのものがついに破壊されてしまったのである」(同上 p.325)…。「1980年代頃から始まった、家族をつくらない根無草的な『マージナル(余白的な)女性』の増大による出生率の低下が、日本の大借金の地獄の業火にさらなる油を注ぐから、日本の沈没は全世界の人々の好奇の注視と蔑みのなかでのたうちまわる『タイタニック号の悲劇』を再現するものになるだろう」(同上 p.337)…。「過去60年間、論壇・文壇で活躍する(した)日本の保守派知識人でバークを一冊でも読んだものは、八木秀次氏をはじめとする一部の例外を除き、驚くほど数が少ない」(同上 p.173)…。その八木秀次氏は「安倍首相はイデオロギーとしての保守主義を正確に理解している数少ない政治家の一人」(八木 p.31)だとしている。
 安倍晋三氏は、ディストピア小説『美しい国へ』の中で「『保守主義』、さらにいえば『開かれた保守主義』がわたしの立場である」(安倍 p.18)とする。「大学に入ってからも、革新=善玉、保守=悪玉という世の中の雰囲気は、それほど変わらなかった。あいかわらずマスコミも、学界も論壇も、進歩的文化人に占められていた」「ただこのころには、保守系の雑誌も出はじめ」(同上 p.24)ちゃったという。「かれらの主張には、当時のメインストリームだった考え方や歴史観とは別の見方が提示されていて、わたしには刺激的であり、新鮮だった。とりわけ現代史においてそれがいえた」(同上 p.25)…。「だからといってわたしは、ことさら大声で『保守主義』を叫ぶつもりはない。わたしには保守というのは、イデオロギーではなく、日本および日本人について考える姿勢のことだと思うからだ」(同上 p.26)…。姿勢=イデオロギー。そして、安倍晋三氏の中の人が高橋史朗氏と入れ替わり、「連合軍の最初の意図は、日本が二度と列強として台頭することのないよう、その手足を縛ることにあった」(同上 p.29)のであり「自主憲法の制定」を後回しにした「結果、弊害もあらわれることになった。損得が価値判断の重要な基準となり、損得を超える価値、たとえば家族の絆や、生まれ育った地域への愛着、国に対する想いが、軽視されるようになってしまったのである」(同上)などと言っちゃう。
 「90年代に入って、少子化は深刻な問題になったが、政府が『産めよ増やせよ』といったところで、子どもをつくるかどうかは、その人の自由」(同上 p.172)であるが「従来の少子化対策についての議論を見て感じることは、子どもを育てることの喜び、家族をもつことのすばらしさといった視点が抜け落ちていたのではないか、ということだ。わたしのなかでは、子どもを産み育てることの損得を超えた価値を忘れてはならないという意識がさらに強くなってきている」(同上 p.173)…。「子どもたちにしっかりした家族のモデルを示すのは、教育の使命ではないだろうか」…「家族がいて、子どもがいるというのは、損得勘定抜きでいいものだなあ、と思うことがよくある」…「子どもというのは、親の人生に圧倒的な充足感を与えるものだ」(同上 p.217)…。「戦後日本は、60年前の戦争の原因と敗戦の理由をひたすら国家主義に求めた。その結果、戦後の日本人の心性のどこかに、国家=悪という方程式がビルトインされてしまった」(同上 p.202)…。「問題はモラルの低下」、「気がかりなのは、若者たちが刹那的なこと」(同上 p.212)…「かつては家庭と地域社会が子どもたちのモラルを醸成する役割を果たしていた。人と人との助け合いをとおして、道徳を学び、健全な地域社会が構成されてきたのである」「そこで考えられるのは、若者たちがボランティアを通して、人と人とのつながりの大切さを学んでもらう方法だ」…「たとえば、大学入学の条件として、一定のボランティア活動を義務づける」(同上 p.213)…。
 中川八洋氏は「日本人の多くが、今や勤勉という徳性も棄てて、その日暮しに浮遊していないだろうか」「日本の迷走と衰落の原因の一つは、やはり日本国憲法にあるのは間違いない。日本国憲法は、緩やかな速度での社会主義革命を指向するもので、この憲法のある限り、日本は自己腐敗的、自己破壊的な過程から、精神の正気も、真理も善も美も、取り戻すことはできない。それに加え、高雅な倫理を否定する第9条がある限り、日本人の精神的堕落は永遠につづくだろう。倫理道徳とは、自己の生命より高い価値に自己犠牲の義務を課すことである」(中川 2002 p.4)と述べている。過労死は美徳である。アヒャヒャヒャヒャ ヘ(゚∀゚ヘ)(ノ゚∀゚)ノ ヒャヒャヒャヒャ

 

引用文献
谷沢永一中川八洋(1998)『「名著」の解読学 興国の書・亡国の書』徳間書店
中川八洋(1996)『正統の哲学 異端の思想 「人権」「平等」「民主」の禍毒』徳間書店
中川八洋(2004)『保守主義の哲学 知の巨星たちは何を語ったか』PHP研究所
八木秀次(2006)『公教育再生 「正常化」のために国民が知っておくべきこと』PHP研究所
安倍晋三(2006)『美しい国へ』文藝春秋
中川八洋(2002)『正統の憲法 バークの哲学』中央公論新社