【トンデモ】小川壺太郎「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」(『新潮45』2018年10月号)

f:id:aki_mmr:20180920213321j:plain

 文が鮮明に統一された小川壺太郎氏によれば「アダムとイブが股間を意識して以来、Homo sapiensは、動物的な生殖行為ではなく、羞恥すべきタブーにして密かな快楽としての性を生きる『人間』になった」(p.84)のだという。あっ…(察し)。小川壺太郎氏はルーシェルによって堕落したエバのようなものであり、「私の性的嗜好も曝け出せば、おぞましく変態性に溢れ、倒錯的かつ異常な興奮に血走り、それどころか犯罪そのものでさえあるかもしれない」(同上)のである。
 「私は社会人として通用する昼の顔を持っていると思う」(同上)…。えっ。お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな。
 「杉田氏は概して弱者の名のもとにおけるマスコミの異常な同調圧力、それらと連動しながら強化されてきた様々な弱者利権、それがしばしば外国による日本侵食工作と繋がっている事の深刻な害毒と戦ってきた人だ」(p.85)などと危ないデムパを放つ小川壺太郎氏は、統一協会(家庭連合)と繋がっている。そのため「周知のように共産党宣言は」(p.86)と突然、勝共しぐさしちゃうし、八木秀次氏のように「雌雄同体に憧れるならカタツムリに生まれればいい」(同上)とカタツムリしぐさしちゃう。「LGBTも私のような伝統保守主義者から言わせれば充分ふざけた概念」(p.88)とのことであるが、保守主義(conservatism)なるものは文が鮮明に統一された概念であり、それはムーニズム(moonism)に他ならない。
 「満員電車に乗った時に女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深ろう」…「彼らの触る権利を社会は保障すべきでないのか」(同上)…。そっ閉じ。

 

引用文献
小川榮太郎(2018)「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」『新潮45』 2018年10月号 新潮社